長野県庁 VS 小役人。
小職が、"VS" の対象としている県庁とは、知事では、ない。こーいっちゃーなんだが、知事とは、外部要因だ。時期が来れば来て、時期が来れば去る。
そりゃー指揮命令は、受ける。だけど、職員は、定年まで奉職するし、何千人といるのだ。この、何千という惰性の力は、大きい。
笹舟を千曲川に流してみる。棒でつついて、ちょっと方向を変えてみることはできる。しかし、結局川の水は、日本海に注ぐ定めにある。
知事によって、職員の本質的な体質改善は、できない。
田中康夫は、かなり激烈な変革を、県庁にもたらした。その次の村井仁は、オーソドックスな行政に戻したが、その分触れ幅も大きかった。知事は大きく変わった。
しかし、変わらなかったものがある。職員の、体質だ。
事なかれ主義。横並び主義。縦割り主義。形式主義。
小職が、対峙していかなくてはならないと考えるのは、こういった思想だ。これらは、そのときどきの知事が持ち込むのではない。我々の内に、既に内在しているのだ。
しかし、県庁組織にあって、同じ組織の職員と対立軸を講じていくというのは、かなり辛い作業だ。
あなたが自治体公務員だろうと、会社員だろうと、この辛さは分かってもらえると思う。あなたが否定するのは、あなたの同僚なのだ。あなたが正論を吐くほど、顧客よりの立場を訴えるほど、あなたは孤立し、陰で馬鹿だと言われる。この際、正しいか正しくないかは、問題ではない。彼らは、正しいのが何であるかには関心がないし、理解もできない。自分たちと同じか、同じでないかが、彼らにとって問題なのだ。
しかし、あなたは気づいてしまった。何が正しくて、どうあるべきなのかを。それを示すことができるのは、あなたしかいないのだ。
そのとき、あなたは、どうするだろうか。何千人とともに、流れていくのだろうか。それをよしとせずに、大河の流れを変えようと、もがいてみるだろうか。
どちらも地獄だ。
これは、小職にしかできない。使命なのだ。そう自分を鼓舞してみる。
もう、あと少しで、小職は、本当に、県庁の敵になるかもしれない。もどるなら今だ。
戻れば、宿舎で、妻子が意地悪されるんじゃないかとか、心配することもない。
0 件のコメント:
コメントを投稿